鎌倉投信と鎌倉殿(その1&2)

(本記事は毎週金曜日に発行しているメールマガジンの再掲です)

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◇◆◇━2022年4月28日━
鎌倉投信と鎌倉殿(その1)
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皆様、こんにちは。鎌倉投信の鎌田恭幸です。
いつも鎌倉投信のメルマガを読んでいただきありがとうございます。

先週、4月20日(水)、23日(土)と、「結い 2101」の春の運用報告会を開催しました。
当日は、日本全国からたくさんのお客様に参加いただき、本当にありがとうございます。
例年、春と秋におこなう運用説明会では、毎回、意見や質問が活発に寄せられます。
その中で、今回は、次のような面白い意見がありました。

「NHK大河ドラマで、『鎌倉殿の13人』が評判になっていますが、もっと宣伝につかってはどうですか」

温かい応援のメッセージとして受け取りました。

丁度、これにまつわる話題を当社メディア「結い日和」などで発信しようと、社員がアイデアを募っていたところでしたので、きっと担当者のモチベーションが高まったことでしょう。
是非、楽しみにしていてください。

鎌倉を舞台にした大河ドラマを観ながら、なぜ鎌倉投信は、日本の歴史を大きく変えたこの地で創業したのだろうか、と思いをめぐらせることがあります。
今に続く政府を中心とした国の統治機構の原型をつくり、経済、文化を日本中に広めていった鎌倉時代は当時革新的で、鎌倉投信をこの地で創業した意義は大きかったと私は感じています。
また、個人的な解釈に過ぎませんが、鎌倉投信と『鎌倉殿の13人』の接点を次のように感じています。

まずは、鎌倉投信の本社屋のある『大御堂(おおみどう)』と呼ばれる土地(広くは大倉または大蔵という地区)です。

本社屋のすぐ近くに「勝長寿院(しょうちょうじゅいん)旧蹟跡」の石碑があります。
勝長寿院は廃寺で、今は跡形もありませんが、鎌倉時代には、鶴岡八幡宮、永福寺(奥州攻めで亡くなった武将等の鎮魂のため平泉の中尊寺二階大堂等を模して建立されとされる寺院。現在は跡地のみ)と並ぶ三大寺社のひとつでした。

源頼朝が、父である源義朝の菩提を弔うため、まず初めに建立した寺院が勝長寿院で、後白河法皇の四十九日法要、平家の菩提を弔うための万灯会などが営まれた由緒ある寺院だったようです。
晩年、北条政子もこの地で過ごしたとされています。
こうした歴史を刻んだ場所の一角から鎌倉投信は生まれ、志を持った仲間と共に、社会に貢献する金融のあり方を目指していることに誇りを感じます。

余談ですが、頼朝が伊豆で挙兵したときから付従っていた武将に伊豆の鎌田城を本拠とした鎌田俊長がいます。
俊長の父は、一説では、頼朝の父 源義朝の側近 鎌田正清とされ、この二人は平家に敗れて京都から鎌倉に逃げ延びる途中、知多半島で討たれました。
勝長寿院の遺跡脇には、この二人の墓石が静かに並んでいます。
吾妻鏡によると、鎌田正清の息女が、亡き父 正清と義朝の供養を行った際、頼朝や政子も列席したと記されています。
私、鎌田のルーツを古く遡れば京都にありますので、もしかしたら私の先祖と正清との縁があり、身近で応援してくれているのかなぁと勝手に妄想しています。

そして、「結い 2101」という名称のもとになった相互扶助の精神による労働「結い」や、互いに融通しあう金融の仕組み「頼母子講(たのもしこう)」もまた、この時代に芽生えたとされます。
次回、このことについて触れてみたいと思います。
(つづく)

◇◆◇━2022年5月13日━
鎌倉投信と鎌倉殿(その2)
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皆様、こんにちは。鎌倉投信の鎌田恭幸です。
いつも鎌倉投信のメルマガを読んでいただきありがとうございます。

この大型連休、皆様はどのように過ごされましたか。
ここ鎌倉は、コロナ禍を感じさせないほど多くの観光客で賑わいを見せていました。
きっと大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のゆかりの地や、神社仏閣を廻られた方も多かったことでしょう。

こうして鎌倉を訪れる観光客が多いのは、海、山などの自然に加え、鎌倉時代から受け継がれている文化があるからでしょう。
鎌倉文化というと「吾妻鏡(あずまかがみ)」などにみられる比較的質素な武家の文化という印象があります。
しかし、実際は、京都から多くの公家や文士が呼び寄せられ、京の雅な文化と武家の文化が融合した艶やかさもあったようです。

紫式部が書いた源氏物語を今に伝える二大写本(紫式部自身が書いた原本は残っていません)の一つ、「河内本源氏物語」が長い年月をかけて鎌倉の地で編纂されたという史実からもそうした一面が覗えます。

そして、それまでの公家文化とは異なる色彩をもった独自の文化が日本各地に広がった背景に、新たな経済システムの発展がありました。
鎌倉時代には、急速に貨幣が流通したことに加え、遠隔地間の貸し借りを決済する手段として、手形や小切手によっておこなう日本初の為替取引「替米(かえまい)」などが考案されるなど、経済システムの変革によって経済が活性化し、人や物の往来が活発におこなわれるようになったのです。

そうした新たな経済システムの中に、相互扶助、共助の精神を元に生まれた新たな仕組み、「結い 2101」という名称のもとになった、助け合いによる労働、「結い」と、仲間内で互いにお金を融通しあう「頼母子講(たのもしこう)」がありました。

例えば、神社仏閣の建立、農作業、今でも各地で受け継がれる茅葺屋根の葺き替えは、「結い」によって広がりをみせ、経済発展の一翼を担ったと考えられます。
鎌倉の由比ガ浜も、一説には、かつて「結いの浜」とよばれたとされるように、多くの人が集い、経済や文化が華やいでいた様子が「海道紀」からもうかがえます。
地引網などの漁仕事も「結い」でおこなわれていたのかもしれませんね。

一方、「頼母子講」が、いつ、どのようにして生まれたかは定かではないものの、鎌倉時代中期、高野山にある寺院の風呂の修繕資金を調達する手段として「憑支(たのもし)」が組まれたことが文書に記されています。
その後、集落に共存する者や仲間内が、「母と子のように相互に頼り合って集まる」という意味から「頼母子講」とされるようになり、それが、現代の信用組合や、30年前まであった相互銀行へと連綿とつながるのです。

このように鎌倉時代は、公家社会から武家社会へと国の統治機構が大きく転換しただけではなく、現代につながる貨幣経済を発展させ、経済をダイナミックに変貌させつつ、更には新たな文化も創造しました。

こうした現代へと続く社会創造・経済創造の起点となった鎌倉の地、相互扶助の金融精神が芽生えた鎌倉の地から、社会を豊かにする投資の在り方を志す「鎌倉投信」を創業した意義はとても大きいと感じています。(つづく)
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